Alternative to pain
前回はピアスの記事を書いたが、今回はスプリットタンなどもう少し深い人体改造について書きたいと思う。
主観や思考が多く書かれているので多少歪んだ価値観が露呈してしまうかもしれない。
少しグロテスクな描写もある為、閲覧注意である。
僕は現在1.3cmほど舌先が切れている。スプリットタンである。
方法としては前回の記事で書いた17歳で開けたセンタータンを徐々に拡張し、6ゲージまで広げたところでメスで裂いた。
拡張に関してだが、14ゲージから8ゲージまでは対して痛みはない。
長めのピアスをつけているとホールが引き延ばされるからだ。
しかし8ゲージから6ゲージ、ここが鬼門である。
今まではそのままピアスを入れるだけで入っていたが拡張器なしでは入らない。
軟膏を用いて滑りを良くして拡張器を通してゆくがすんなりとはいかず、ブチっと
音が聞こえるほど強く押し込めば入っていく。
そして酷い鈍痛が常に三日ほど付き纏う。
下手したら舌を切るより痛かったかもしれない。
舌を切る際は使い捨てのメスを使った。10番のメスである。
まずリステリンで口をゆすいでから氷で舌を冷やす。
ピアスを外し、拡張した裏の穴からメスの切っ先を刺していく。
貫通したところで徐々に舌先へ刃先を進めていった。
痛みは氷と鋭い刃物を使ったからか舌ピアスより痛くなかったように思う。
それよりかは精神的ショックの方が大きかった。
普通の感覚で自身の体を切り離すことが出来るだろうか?
多少感覚が壊れているか、相当にハイでないと出来ないだろう。
舌を切っている時に舌先に走る痛みと流れ出る血液と常識が壊れる音を感じた。
しかし舌を切ったのはファッションだけと言うわけではない。
これは本能的な感覚である痛みや恐怖というものをどれだけ思考で抑え込めるかの実験である。
トラウマになるような精神的ストレスを自身に与えた時どのような思考が生まれるのか、その変化にも期待をした。
止まらない知的好奇心により舌を割ったようなものである。
この痛みを抑える思考は14歳の頃に生まれた。
学校へおいでと言ってくれる友人に対しての罪悪感の捌け口は自分の腕である。
しかし、いくら自傷行為をしても痛みがある限りは深く傷つけることができないという自分自身に甘えを感じた。
罪悪感を軽くする罰として執行している痛みに甘えがあるのではそれは罰になり得ない。
そう感じた結果、痛みに対しての価値観を変えるという方法を思いついた。
痛覚というものは鋭い感覚であるが、「痛み」という名前がついているだけでこれは痛みではない。それを感じたところで死ぬわけでもない。ならば恐れることは無いじゃないか。
結果としてその思考を感覚と共に確立していった結果、痛みにはだいぶ強くなったように思える。
スプリットタンはその思考に対しての試験である。
僕が痛みのあまり、恐怖のあまり、切れないならばこの思考は劣性として淘汰されるべきだ。
なんらそれは悪いことではない。普通の感覚である。
自分自身の思考がどの程度の痛みまで通用するのか知りたいという知的好奇心が今回の理由であった。
経過としては舌を切ったあとも腫れる事無くしっかりと動くので切る場所に間違いはなかったようだ。
まだ痛みが完璧になくなったわけではないので常にロキソニンを持ち歩いている。
この実験で日常生活に支障を来たすのは違うと思うからだ。
変化があるとすれば感覚の増加(舌先が分離したため)と甘さを普通以上に感じる点だろうか。
先日とても驚いたのだがタバコ(セブンスター)が甘く感じたのである。
味覚の変化もこれから期待する部分だ。
今回の結果として痛みは思考で抑えられる。
感覚はある程度、思考での書き換えが可能である。
精神的ストレスを与えども、この程度では少し常識のようなものが壊れる程度でしかない。
ということがわかった。
感覚の書き換えに関しては自己暗示で出来ると思うので、恐怖などにそれを適応させた場合は日常生活でも有用に使えるのではないだろうか。
痛みの向こうにはまだ何かあると信じたい次第である。